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アマゾン河口の大都市ベレンから、南へ車で約5時間。日系移民の一大居住地トメアスは、異郷ブラジルで培われた独特な文化をもつ土地だ。
玄関前のポーチには脱いだ履物がずらりと並ぶ。これは移民たちが、土足で家に上がらないという日本の風習を今も守っているからだ。訪問客は東南アジア原産のエキゾチックな果物、マンゴスチンのジュース(不思議な味がする)でもてなされる。

日本人のブラジル移住は移民船「笠戸丸」に始まり、第2次世界大戦以前に18万9000人、戦後も6万8000人が海を渡った。移住者と子孫は、今では140万人を擁するという海外最大の日系社会を築いている。アマゾンへの移住が決まったのは1929(昭和4)年。第1回移民の189人だった。現在ここトメアスには、日本からやってきた一世と、移住後に生まれた二世、三世を含む日系人が約1500人暮らす。後で詳しく述べるが、入植当初はカカオ栽培の失敗やマラリアの流行で辛酸をなめ、後に導入されたコショウ(ピメンタ・ド・ヘノイ)の栽培が大当たりして隆盛を極めたこの地には、苦難と繁栄の交錯する、ブラジル移民の軌跡が深く刻まれている。

日本では明治維新以降、多くの移民が海外をめざした。当初はハワイや米国本土が主な移民先だったが、排日運動の高まりなどから北米への道がほぼ閉ざされると、南米のブラジルなどが新天地として注目された。ブラジル側も勤勉な日本人の移住を奨励し、アマゾン流域の開拓を進めたいパラ州からは、入植地の無償譲渡という提案が舞いこんだ。日本政府と産業界は、この願ってもない申し出を歓迎。1928年には移民会社の「南米拓殖」とその現地機関も設立された。

こうして移住が本格的に始まり、1937年までに2100人あまりがトメアスに入植した。だが、主力商品として期待されたカカオの栽培は不成功に終わった。最大の原因は、日本人入植者たちが、カカオの木には風よけが必要なことを知らなかったためだという。代わりに米と野菜の生産に活路を求めたが、市場となるベレンまで商品を運ぶには水路で一昼夜かかり、厳しい暮らしが続いた。

さらにマラリアの蔓延が、入植者の苦境に追い討ちをかけた。この病気は一般に、森林を開拓してから2〜3年後に広がりやすい。栄養不足の移住者たちは病を克服できずにばたばたと倒れ、トメアスはたちまち「アマゾンの地獄」と呼ばれるようになった。マラリアの魔手を逃れようと、入植者の7割以上がこの地を離れ、ベレンやサンパウロへ移っていった。後にはわずかな人々が残され、まるでこの世の終わりのようだった。しかしこの後、新たな作物として導入されたコショウの栽培によって、思わぬ転機が訪れる。

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