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トメアスがあるパラ州は、ブラジルで現在、森林破壊が最も深刻な地域だ。違法な伐採をする業者との衝突が、森林農業に取り組む農場主たちを悩ませている。ある農場主は、匿名希望を条件にこんな話を聞かせてくれた。「森林を開拓する際、一部は伐採せずに保全することが法律上義務づけられています。にもかかわらず、守られるはずの森も切り開かれるか、業者が伐採に入りこんでいるのが実情です」

「違法な伐採を見かねて、業者を告発したことがあります。機械がいくつか没収されただけで容疑者は釈放され、私は命を狙われる羽目になりました」と、彼は話を締めくくった。大通りの売店にちょっと立ち寄れば、こんな話がたいてい聞こえてくる。日暮れどきになると人々はそうした店に集まり、ビール片手におしゃべりに花を咲かせる。

なかでも草野球協会の売店は、金曜日になると大にぎわいだ。たっぷり用意された寿司や刺身、魚料理を囲んで、気心の知れた仲間同士、翌週の野球の試合や釣りの話題、次のシーズンの収穫の話などで盛り上がる。

週末ともなれば、地区の行事が目白押しだ。お祭り、運動会、ソフトボールやゴルフの大会。へんぴなアマゾンの小さな町とは思えない充実ぶりに驚かされる。とりわけ毎年7月の盆踊り大会は、夏の行事のハイライト。トメアスの住民たちが心待ちにする、一大イベントとなっている。

だが、祭りのざわめきに耳をすませば、トメアスの新旧世代間のアイデンティティーの混乱が伝わってくる。流暢な日本語で話す年老いた一世たちに、もっぱらポルトガル語を使う若者たち。そして彼らの間には、二つの言語を操り、その両方を母語とする二世、三世の住民たちもいる。

「日本に早く行きたい。お金を稼いで、大学に通いたい」“よりよい機会”を求め、日本に渡る若者が毎年10〜15人はいる。彼らは「デカセギ」と呼ばれ、海を渡ってトメアスへやってきた一世の道のりを逆向きにたどるように、日本をめざす。そうして、二度と戻ってこない者も多いという。

97歳になる林熊男さんは、「孫たちの世代は、私たちよりも大きな困難に直面しています」と話す。初期の移民としてトメアス移住地の歩みを見つめてきた生き証人の、心中は複雑だ。ブラジルと日本、二つの祖国のはざまに生きるトメアスの人々にとっては、アマゾンという自由の大地こそが、心のすみかなのかもしれない。マラリア、飢え、病水害など数々の逆境を乗り越えてきたトメアスの人々の歩む道に、いま、新たな試練が訪れている。

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トメアスにもたらされたコショウの苗木は、全部で20本。1933年に移民監督官としてアマゾンに赴任した南米拓殖職員の臼井牧之助さんが、たまたま寄港したシンガポールで購入してきたものだった。そのうち無事に根づいたわずか2本の苗木から、入植地にコショウの栽培が広がった。折も折、第2次世界大戦で戦場と化した南アジア・東南アジアの産地が壊滅状態となったために、世界市場におけるコショウの価値が急騰。新興産地であるトメアスが一躍注目を集めることとなった。

戦後、需要の伸びに伴って高値で取引されたコショウを人々は「黒ダイヤ」と呼び、トメアスは空前の「ピメンタ景気」にわいた。農園主たちは先を争うように数万本、十万本という単位で苗を植えて栽培規模を拡大。1938年にはわずか70キロだった地域の農業組合のコショウの生産量は、1953年に650トン、1968年には5700トンと飛躍的な伸びをみせた。敗戦後の日本からの移住者受け入れも始まり、多くの戦後移民がブラジルでの成功を夢みて渡航。過酷な労働に耐えながら、アマゾン地域のコショウ生産を支えた。

ところが1960年代後半になると、フザリウム菌による病害が急速に広がりだした。たった2本の苗木から出発したトメアスのコショウ農園では、いったん病気が発生すると2〜3年で次々にコショウが枯れ、畑ごと全滅してしまう。さらに深刻な水害や価格の下落も追い討ちをかけ、コショウ栽培は大打撃を受けた。

そんな苦しみのどん底からも、新たな希望の光が見えてきた。熱帯の自然と調和をめざす森林農業「アグロフォレストリー」への取り組みだ。日系農家が1970年代から始めたこの取り組みは、今では持続可能な農業システムとして広く注目されている。

アグロフォレストリーでは農業と林業を有機的に組み合わせ、土地を複合的に利用する。まず、コショウ、米、豆などすぐに収穫できる作物を育て、3年後あたりからカカオやゴムのほか、アサイ、アセロラ、クプアスなどの熱帯果樹、高級材のマホガニーといった樹木も植える。5年もするとコショウは病気で枯れてしまうが、単一栽培と違い、他の有用樹木からの収益で暮らしていける。こして別の場所にコショウを植えて、次の循環が始まるという仕組みだ。

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アマゾン河口の大都市ベレンから、南へ車で約5時間。日系移民の一大居住地トメアスは、異郷ブラジルで培われた独特な文化をもつ土地だ。
玄関前のポーチには脱いだ履物がずらりと並ぶ。これは移民たちが、土足で家に上がらないという日本の風習を今も守っているからだ。訪問客は東南アジア原産のエキゾチックな果物、マンゴスチンのジュース(不思議な味がする)でもてなされる。

日本人のブラジル移住は移民船「笠戸丸」に始まり、第2次世界大戦以前に18万9000人、戦後も6万8000人が海を渡った。移住者と子孫は、今では140万人を擁するという海外最大の日系社会を築いている。アマゾンへの移住が決まったのは1929(昭和4)年。第1回移民の189人だった。現在ここトメアスには、日本からやってきた一世と、移住後に生まれた二世、三世を含む日系人が約1500人暮らす。後で詳しく述べるが、入植当初はカカオ栽培の失敗やマラリアの流行で辛酸をなめ、後に導入されたコショウ(ピメンタ・ド・ヘノイ)の栽培が大当たりして隆盛を極めたこの地には、苦難と繁栄の交錯する、ブラジル移民の軌跡が深く刻まれている。

日本では明治維新以降、多くの移民が海外をめざした。当初はハワイや米国本土が主な移民先だったが、排日運動の高まりなどから北米への道がほぼ閉ざされると、南米のブラジルなどが新天地として注目された。ブラジル側も勤勉な日本人の移住を奨励し、アマゾン流域の開拓を進めたいパラ州からは、入植地の無償譲渡という提案が舞いこんだ。日本政府と産業界は、この願ってもない申し出を歓迎。1928年には移民会社の「南米拓殖」とその現地機関も設立された。

こうして移住が本格的に始まり、1937年までに2100人あまりがトメアスに入植した。だが、主力商品として期待されたカカオの栽培は不成功に終わった。最大の原因は、日本人入植者たちが、カカオの木には風よけが必要なことを知らなかったためだという。代わりに米と野菜の生産に活路を求めたが、市場となるベレンまで商品を運ぶには水路で一昼夜かかり、厳しい暮らしが続いた。

さらにマラリアの蔓延が、入植者の苦境に追い討ちをかけた。この病気は一般に、森林を開拓してから2〜3年後に広がりやすい。栄養不足の移住者たちは病を克服できずにばたばたと倒れ、トメアスはたちまち「アマゾンの地獄」と呼ばれるようになった。マラリアの魔手を逃れようと、入植者の7割以上がこの地を離れ、ベレンやサンパウロへ移っていった。後にはわずかな人々が残され、まるでこの世の終わりのようだった。しかしこの後、新たな作物として導入されたコショウの栽培によって、思わぬ転機が訪れる。

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